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この時代は「普通」とは言っても「実際は区間快速」のような運転をする乗り得列車が全国各地に存在しました。そのため、列車を乗り間違えると到着駅まで数時間所要時間が変わるというのも珍しくありません。たとえば 20:34神戸発26列車は京都~豊橋間が快速運転で、この区間に限れば先行の急行6列車より途中停車駅は6駅多いだけです。
1:46 右写真、特別急行列車の牽引機関車がEF55だったのに驚きです(・・;)
こうしてみると、この9年後に登場した省線関西急電(今のJR新快速の起源)がいかに革命的なものだったかわかる。そしてそれを誘発した京阪神大都市圏の私鉄各社の先進性と強力さも。
登録者ではないんですが。今では時刻表に「特急」の文字がバーゲンセールみたいに安売りされてますが、この当時、2往復しかも東海道、山陽区間しかない。「特別急行」の😊文字がすごく誇らしげに思えます
大正14年当時、神戸発青森行の急行は2泊かけて走行していたのですね...今後も無理なさらぬように。御自愛くださいませ...
敦賀から北はかつての西回り航路(青森から北陸、山陰、瀬戸内海を回って大阪まで)を彷彿とさせるルートをなぞっているので大きな需要があったものと思います。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。おかげさまで今の所順調に回復しております。途中で普通列車に変わるとは言え、2泊の急行列車というインパクトは大きいですね。
今から大体100年前ですか。国際港神戸から大阪や京都でさえ1、2時間を要し、翌々日までかけて走り抜ける列車までいた時代。特急はおろか、新幹線や飛行機すら当たり前の我々から見たらなんて不便な時代だと思うが、この50年ほど前まで鉄道すらなかったことを思えば当時の人々は「なんて便利な時代なんだ」と感動したことだろう。交通ってのは見果てぬ夢であり無限の可能性だ…
動画お疲れ様です。引き続き無理なくの動画を楽しみにしてます。神戸駅は戦前は東海道本線の終点駅かつ山陽本線の起点駅という鉄道結節点でしたが、今では完全に三ノ宮駅にとって変わられたという印象ですね
どうしてそうなったのか詳しくないのですが、戦前は神戸市の中心・繁華街は湊川~新開地で、そこに近い神戸駅が中心だったのでしょうね。三宮が神戸市の中心部として栄えていったのは昭和30年代以降らしいです。
要因は色々ありますが、明治後期に居留地解放で、三宮から元町辺りが開発エリアになりました。明治期に開通した阪神電車は三宮止まり。昭和に入って参入した阪急も最終的に三宮止まり。結果、神戸より大阪方面からの玄関口が三宮になりました。また、姫路側からは山電が兵庫止まりで、東西の流れが神戸駅に集約しなかったのも要因かと。トドメは役所関連が元町と三宮に移転した事でしょうね。県民としては、神戸周辺は昭和の香りが色濃く残ってるので、好きな場所ではありますけど。
@@user-gl5dg1st6f 確か、阪急も阪神もかつては湊川~新開地まで線路を敷こうと考えていた節もあり、実際に戦後に私鉄4社のターミナルとしてJR神戸駅近くに神戸総合駅を作る構想(神戸高速の整備とともに)があったようです。しかし、地形的な問題や反対運動もあり、これが実現せず、神戸総合駅は縮小する形で高速神戸駅になり、神戸電鉄は新開地に乗り入れる形で神戸高速だけは完成した(それも昭和43年になってから)ようです。その頃にはもう、湊川~新開地の魅力もずいぶん薄れてしまっていたようですね。
@@kataakeo7730 さんですね、気付いたら立ち消えになった神戸駅への統合。まあ、阪急の地上延伸を嫌い、阪神は地下化したものの、元町が精一杯。更に大戦と戦後の物資不足。なるべくしてなった、結果論ではありますけど。せめて昭和30年半ばに繋がっていたら、また違った神戸駅になっていたでしょうね。
@@user-gl5dg1st6f もう一つよくわからないのは、湊川~新開地エリアに百貨店が営業していた歴史があるのでしょうか?百貨店については、戦前から元町エリアに集積し(大丸、三越)、そごう(今の神戸阪急)は三宮に開業していたと思うのですが。
ある意味特徴的なダイヤですね。1)基本的に普通中心のダイヤ(=大半を占める)。2)特急は朝の時間帯に固まっている→東京にはその日のうちにつくように。3)急行は夜の時間帯に集中的に設定されている→東京行の夜行中心でいずれも東京には翌朝につく設定。4)他の方も書いていますが、青森行が翌々日であり、かつ神戸始発?であること。
普通中心とは言っても深夜帯に快速運転する「普通」列車も結構多かったりします。なので、よくダイヤを調べて乗らないと数時間到着が変わったりします。また、神戸~京都間は快速運転する普通列車も存在しました。04:04 05:30 ※07:15 08;47 ※11:12 13:45 15:33 21;50 以上の列車が神戸~大阪間を快速運転しており、※は三ノ宮~大阪間、大阪~京都間無停車でした。
大正末期に羽越本線が全通して神戸青森間の列車が設定されたのですね、青函連絡船を挟んで根室から神戸まで行けたようですね戦後は根室から特産の昆布を大阪、鹿児島に運んだ貨物列車が存在していました青函部分もそのまま連絡船に乗せて
大正末期の神戸駅の時刻表、痺れますね~。東京行きの便は、特別急行や急行も全て国府津駅に停車するダイヤとなっていて、御殿場線経由による蒸機(補機)の脱着のためだったのでしょうか...。食堂車の写真も大正ロマンを感じます。神戸から富山や直江津など北陸直行便があったんだなぁって感慨深げに見ていたら、なんと二晩かけて青森までいく列車もあったのですね!神戸~京都が普通列車でほぼ2時間。高速道路もなかった当時では、これでも十分に快速だったのでしょう。
国府津駅は小田原方面への分岐の関係上停車していましたね。この数ヵ月後には東京から国府津まで電化、機関車の取り替えも行われていました。下り列車はさらに山北に停車、補助機関車の連結や本務機関車の給水や石炭の積込をしていました。この5年後に登場したつばめ号は国府津で30秒停車のみで横浜→名古屋ノンストップ。時速90キロで走る間に手すりに掴まりながら炭水車と石炭車のところを通って乗務員が交代していたほど。今なら即アウトですね。神戸から京都はまだ新京阪も開通しておらず、阪神から京阪に乗り換えるにも大阪市電利用、さらには天満橋から三条も1時間以上かかったこともあり、国鉄に頼るしかなかったものと思います。
詳細な情報をありがとうございます! 命がけの特急運行だったのですね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。都市圏でも当たり前のように蒸気機関車牽引の客車が運転されていた時代ですね。当時の生活を想像するだけでも楽しめます。つばめ号の走行中の乗務員交代のエピソードも今では考えられない危険さでした。そのような危険を冒してまでも、少しでも早く到着するために数々の工夫をしていたことに、当時の鉄道関係者の並々ならぬ想いが伝わってきます。
いつもありがとうございます。体調は大丈夫でしょうか。無理しないでくださいね。まだ高架になる前、さらには電化すらされていなかった時代ですね。この時代ですと山陽側から京都まで、東海道線では神戸始発の東京行きや北陸方面行きが出発していたのですね。まだ阪神間の駅は少なく、阪神電車が主に神戸市街から大阪への輸送を受け持っていたのでしょう。東京へは一夜、普通列車なら18時間かけてボックスシートに座っていた時代を考えると、新神戸から東京まで3時間足らずで行けることに100年の鉄道の進化の凄さを感じます。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。おかげさまで少しずつ右腕が動くようになってきて、生活が楽になってきました。神戸駅が名実ともに東海道本線と山陽本線の起点であり終点であることを感じさせますね。新幹線もそうですし、在来線では新快速により京阪神間の移動が便利になったことを実感します。
体調はいかがでしょうか?身体の自由が利かない中、興味深い動画の作成ありがとうございます。神戸駅、個人的に好きな駅の一つなので、とても嬉しいです。さすがは大正時代、普通列車が中心のダイヤ構成になっていますね。今なら新快速で50分弱で行ける神戸京都間が2時間かかっていたのも、時代を感じます。神戸発直江津行きや国府津行きなど、今では想像もつかない行先設定ですよね。今は新幹線や飛行機で移動できる分忙しない世の中になりましたが、当時は一つの移動に時間をかけざるを得なかった分、のんびりした世相だったのかなと想像しました。
既にレールで青森まで繋がってることに驚きです…実際本州は青森~下関間はレールで繋がってたんですかね?
20年前に既に繋がってましたよ
当時の最新鋭機関車はC51、近距離は8620だったんでしょうかねC51はまだ18900だった頃でしょうか翌々日までかかる青森行き乗ってみたくなりました当時は当然シャワーブースとか無かったから、乗ったら乗ったで大変だったんでしょうね
意外と神戸発北陸方面行きの列車が多い事に驚きました。後のポートライナー、特急雷鳥神戸行きにつながる列車かな?
その頃はまだ大阪に大きな操車場がなかったことも影響しているのかもしれませんね。それに東京方面にせよ山陽方面にせよ京阪神の主要3都市から集客したかった意図もあるのでしょう。(東京~下関の列車は別として)電化後宮原の操車場が整備、さらに戦後は向日町に車両基地が設けられたことで大阪駅を起点(終点)とする列車が数多く設定されたものと考えます。
怪我の回復はいかがですか?自分もそうですが、趣味や好きなことは体調がどうであれ惜しまずの行動をしてしまうところがあるので無理のない範囲での活動であっても楽しく動画拝見させてもらいます。かつては、鉄道・船が国際連絡としての手段だったと考えると本当に世界は遠くに見えてしまいます。旅行の時に新幹線を使わずに普通列車で移動することが多いので、時間はかかれど、それが楽しかったりもするので悪いことではないように思えます。
回復は順調でしょうか?もう阪神電車も阪急電車も走り始め、都市間連絡の私鉄と長距離輸送の省線に役割が分かれていた時代ですが、省線も京阪神間のネットダイヤがしっかり構築されていたんですね。ほぼ1時間ごととはいえ、蒸気機関車牽引の列車が現在の阪神各駅停車と同じくらいの時間で阪神間を結んでいたのだから、省線も頑張っていたと思います。早い時間帯に設定の国府津行きや直江津行きを見て「鈍行はなるべく日付をまたがないようにしているのかな?」なんて考えながら眺めていましたが、甘かったですね。青森行き・・・
阪急はまだ上筒井が終点で、さらには阪神もこの頃は三宮まで。市電で旧居留地や神戸駅周辺に出ていたのでしょう。国鉄の三ノ宮駅はこの時代は元町にあったものの電化+高架化で今の位置に移転。その位置には既に阪神があり、後に阪急も三宮へ。この一世紀の間には神戸は阪神大水害、空襲、そして大震災を乗り越えてきました。これからの100年も良い都市であって欲しいですね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。おかげさまで今のところ順調に回復しております。長距離の移動はまだまだ多くなかったと思いますが、京阪神間の移動はこの時代でも需要があったことがうかがえますね。私も同じように感じました。鈍行は日付をまたがないような設定にしているのかと思いましたが、青森行きの文字で、その考えが違うことを痛感しました。
いつも貴重な動画、ありがとうございます。一つだけ。19:14発の京都行、着は9:27ではなく21:27?
この322列車、時刻表を見ると京都終着は20:27と思われます。
曾祖父母が神戸に住んでいて特急で東京の親戚宅に国鉄に乗って来てた話しを祖父母やお袋から聞いてます。ストが多かったらしく帰るに帰れずにタクシー乗り継いで神戸に戻った話しも聞きました😂
1970年頃の新幹線ひかりからの寝台特急あかつきの時刻表もお願いします🙏
興味深い動画をありがとうございます。一つ質問ですが、19時14分発の普通京都行き(322列車)について、終着が「9時27分」となっていますが翌朝のことですか?
たぶん午後9時27分で21時27分着でしょう。24時間制に変換し損ねたのではないかと推測します。
始発が今より30分以上早かったんですね。国府津行は静岡地区の最終列車を兼ねてたんですかね?。
その後に午前10時発の沼津行きがあります。ただ、今と違って都市間移動も少なく、終電という考えはなかったのかもしれませんね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。当時と今では生活スタイルが違うので、鉄道の役割も大きく異なっていたのでしょうね。
この時期に、現代の幕張メッセで開催されるイベント行くためには11時半には出ないと行けないのか
御身体は大丈夫でしょうか?青森行の列車は凄いですね。2昼夜かけて走ってます。多分、2桁の列車が長距離走行で、三桁の300番台の列車が京阪神地区を結ぶ区間運転の列車じゃないでしょうか?京阪神地区の電車運転はもう少し後の時代になります。
御身体は大丈夫でしょうか?青森行の列車は凄いですね。2昼夜かけて走ってます。(鉄道ジャーナル誌の日本海縦貫線の優等列車の歴史を記述した記事では、戦前は神戸〜青森間で2泊する長距離列車が設定されていた。戦後は大阪〜青森間に短縮され、急行「日本海」と列車愛称がつけられ、ヨンサントウで寝台特急化で、後に廃止になり消えていきました。)多分、2桁の列車が長距離走行で、三桁の300番台の列車が京阪神地区を結ぶ区間運転の列車じゃないでしょうか?京阪神地区の電車運転はもう少し後の時代になります。然し、32列車は普通なのに2等寝台車を連結しているのには驚きです。
久しぶりですね😊その後は体調いかがですか?作成お疲れ様です。お!今日は神戸発ですか!直江津に向かうのもあったんですね。北は青森…。鉄道網の歴史を感じます。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。おかげさまでPC作業はほぼ問題なくできるようになるまで回復しました。神戸駅が東海道本線の終点であることを強く感じさせる時刻表ですね。到着までにかなり時間がかかることも驚きです。
もし、この時代に某有名コンテンツがあったら聖地巡礼の計画が立てやすかったかも。1本で東京、沼津、金沢のいずれかに行ける電車も存在したんだから。
この時代は「普通」とは言っても「実際は区間快速」のような運転をする乗り得列車が全国各地に存在しました。
そのため、列車を乗り間違えると到着駅まで数時間所要時間が変わるというのも珍しくありません。
たとえば 20:34神戸発26列車は京都~豊橋間が快速運転で、この区間に限れば先行の急行6列車より途中停車駅は6駅多いだけです。
1:46 右写真、特別急行列車の牽引機関車がEF55だったのに驚きです(・・;)
こうしてみると、この9年後に登場した省線関西急電(今のJR新快速の起源)がいかに革命的なものだったかわかる。そしてそれを誘発した京阪神大都市圏の私鉄各社の先進性と強力さも。
登録者ではないんですが。
今では時刻表に「特急」の文字がバーゲンセールみたいに安売りされてますが、この当時、2往復しかも東海道、山陽区間しかない。「特別急行」の😊文字がすごく誇らしげに思えます
大正14年当時、神戸発青森行の急行は2泊かけて走行していたのですね...
今後も無理なさらぬように。御自愛くださいませ...
敦賀から北はかつての西回り航路(青森から北陸、山陰、瀬戸内海を回って大阪まで)を彷彿とさせるルートをなぞっているので大きな需要があったものと思います。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
おかげさまで今の所順調に回復しております。
途中で普通列車に変わるとは言え、2泊の急行列車というインパクトは大きいですね。
今から大体100年前ですか。国際港神戸から大阪や京都でさえ1、2時間を要し、翌々日までかけて走り抜ける列車までいた時代。
特急はおろか、新幹線や飛行機すら当たり前の我々から見たらなんて不便な時代だと思うが、この50年ほど前まで鉄道すらなかったことを思えば当時の人々は「なんて便利な時代なんだ」と感動したことだろう。
交通ってのは見果てぬ夢であり無限の可能性だ…
動画お疲れ様です。
引き続き無理なくの動画を楽しみにしてます。
神戸駅は戦前は東海道本線の終点駅かつ山陽本線の起点駅という鉄道結節点でしたが、今では完全に三ノ宮駅にとって変わられたという印象ですね
どうしてそうなったのか詳しくないのですが、戦前は神戸市の中心・繁華街は湊川~新開地で、そこに近い神戸駅が中心だったのでしょうね。三宮が神戸市の中心部として栄えていったのは昭和30年代以降らしいです。
要因は色々ありますが、明治後期に居留地解放で、三宮から元町辺りが開発エリアになりました。
明治期に開通した阪神電車は三宮止まり。
昭和に入って参入した阪急も最終的に三宮止まり。
結果、神戸より大阪方面からの玄関口が三宮になりました。
また、姫路側からは山電が兵庫止まりで、東西の流れが神戸駅に集約しなかったのも要因かと。
トドメは役所関連が元町と三宮に移転した事でしょうね。
県民としては、神戸周辺は昭和の香りが色濃く残ってるので、好きな場所ではありますけど。
@@user-gl5dg1st6f 確か、阪急も阪神もかつては湊川~新開地まで線路を敷こうと考えていた節もあり、実際に戦後に私鉄4社のターミナルとしてJR神戸駅近くに神戸総合駅を作る構想(神戸高速の整備とともに)があったようです。
しかし、地形的な問題や反対運動もあり、これが実現せず、神戸総合駅は縮小する形で高速神戸駅になり、神戸電鉄は新開地に乗り入れる形で神戸高速だけは完成した(それも昭和43年になってから)ようです。
その頃にはもう、湊川~新開地の魅力もずいぶん薄れてしまっていたようですね。
@@kataakeo7730 さん
ですね、気付いたら立ち消えになった神戸駅への統合。
まあ、阪急の地上延伸を嫌い、阪神は地下化したものの、元町が精一杯。
更に大戦と戦後の物資不足。
なるべくしてなった、結果論ではありますけど。
せめて昭和30年半ばに繋がっていたら、また違った神戸駅になっていたでしょうね。
@@user-gl5dg1st6f もう一つよくわからないのは、湊川~新開地エリアに百貨店が営業していた歴史があるのでしょうか?
百貨店については、戦前から元町エリアに集積し(大丸、三越)、そごう(今の神戸阪急)は三宮に開業していたと思うのですが。
ある意味特徴的なダイヤですね。
1)基本的に普通中心のダイヤ(=大半を占める)。
2)特急は朝の時間帯に固まっている→東京にはその日のうちにつくように。
3)急行は夜の時間帯に集中的に設定されている→東京行の夜行中心でいずれも東京には翌朝につく設定。
4)他の方も書いていますが、青森行が翌々日であり、かつ神戸始発?であること。
普通中心とは言っても深夜帯に快速運転する「普通」列車も結構多かったりします。
なので、よくダイヤを調べて乗らないと数時間到着が変わったりします。
また、神戸~京都間は快速運転する普通列車も存在しました。
04:04 05:30 ※07:15 08;47 ※11:12 13:45 15:33 21;50 以上の列車が神戸~大阪間を快速運転しており、※は三ノ宮~大阪間、大阪~京都間無停車でした。
大正末期に羽越本線が全通して神戸青森間の
列車が設定されたのですね、青函連絡船を
挟んで根室から神戸まで行けたようですね
戦後は根室から特産の昆布を大阪、鹿児島に
運んだ貨物列車が存在していました
青函部分もそのまま連絡船に乗せて
大正末期の神戸駅の時刻表、痺れますね~。
東京行きの便は、特別急行や急行も全て国府津駅に停車するダイヤとなっていて、御殿場線経由による蒸機(補機)の脱着のためだったのでしょうか...。
食堂車の写真も大正ロマンを感じます。
神戸から富山や直江津など北陸直行便があったんだなぁって感慨深げに見ていたら、なんと二晩かけて青森までいく列車もあったのですね!
神戸~京都が普通列車でほぼ2時間。高速道路もなかった当時では、これでも十分に快速だったのでしょう。
国府津駅は小田原方面への分岐の関係上停車していましたね。この数ヵ月後には東京から国府津まで電化、機関車の取り替えも行われていました。
下り列車はさらに山北に停車、補助機関車の連結や本務機関車の給水や石炭の積込をしていました。
この5年後に登場したつばめ号は国府津で30秒停車のみで横浜→名古屋ノンストップ。
時速90キロで走る間に手すりに掴まりながら炭水車と石炭車のところを通って乗務員が交代していたほど。今なら即アウトですね。
神戸から京都はまだ新京阪も開通しておらず、阪神から京阪に乗り換えるにも大阪市電利用、さらには天満橋から三条も1時間以上かかったこともあり、国鉄に頼るしかなかったものと思います。
詳細な情報をありがとうございます! 命がけの特急運行だったのですね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
都市圏でも当たり前のように蒸気機関車牽引の客車が運転されていた時代ですね。当時の生活を想像するだけでも楽しめます。
つばめ号の走行中の乗務員交代のエピソードも今では考えられない危険さでした。そのような危険を冒してまでも、少しでも早く到着するために数々の工夫をしていたことに、当時の鉄道関係者の並々ならぬ想いが伝わってきます。
いつもありがとうございます。体調は大丈夫でしょうか。無理しないでくださいね。
まだ高架になる前、さらには電化すらされていなかった時代ですね。
この時代ですと山陽側から京都まで、東海道線では神戸始発の東京行きや北陸方面行きが出発していたのですね。まだ阪神間の駅は少なく、阪神電車が主に神戸市街から大阪への輸送を受け持っていたのでしょう。
東京へは一夜、普通列車なら18時間かけてボックスシートに座っていた時代を考えると、新神戸から東京まで3時間足らずで行けることに100年の鉄道の進化の凄さを感じます。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
おかげさまで少しずつ右腕が動くようになってきて、生活が楽になってきました。
神戸駅が名実ともに東海道本線と山陽本線の起点であり終点であることを感じさせますね。
新幹線もそうですし、在来線では新快速により京阪神間の移動が便利になったことを実感します。
体調はいかがでしょうか?身体の自由が利かない中、興味深い動画の作成ありがとうございます。
神戸駅、個人的に好きな駅の一つなので、とても嬉しいです。
さすがは大正時代、普通列車が中心のダイヤ構成になっていますね。今なら新快速で50分弱で行ける神戸京都間が2時間かかっていたのも、時代を感じます。
神戸発直江津行きや国府津行きなど、今では想像もつかない行先設定ですよね。
今は新幹線や飛行機で移動できる分忙しない世の中になりましたが、当時は一つの移動に時間をかけざるを得なかった分、のんびりした世相だったのかなと想像しました。
既にレールで青森まで繋がってることに驚きです…実際本州は青森~下関間はレールで繋がってたんですかね?
20年前に既に繋がってましたよ
当時の最新鋭機関車はC51、近距離は8620だったんでしょうかね
C51はまだ18900だった頃でしょうか
翌々日までかかる青森行き乗ってみたくなりました
当時は当然シャワーブースとか無かったから、乗ったら乗ったで大変だったんでしょうね
意外と神戸発北陸方面行きの列車が多い事に驚きました。後のポートライナー、特急雷鳥神戸行きにつながる列車かな?
その頃はまだ大阪に大きな操車場がなかったことも影響しているのかもしれませんね。
それに東京方面にせよ山陽方面にせよ京阪神の主要3都市から集客したかった意図もあるのでしょう。(東京~下関の列車は別として)
電化後宮原の操車場が整備、さらに戦後は向日町に車両基地が設けられたことで大阪駅を起点(終点)とする列車が数多く設定されたものと考えます。
怪我の回復はいかがですか?
自分もそうですが、趣味や好きなことは体調がどうであれ惜しまずの行動をしてしまうところがあるので無理のない範囲での活動であっても楽しく動画拝見させてもらいます。
かつては、鉄道・船が国際連絡としての手段だったと考えると本当に世界は遠くに見えてしまいます。
旅行の時に新幹線を使わずに普通列車で移動することが多いので、時間はかかれど、それが楽しかったりもするので悪いことではないように思えます。
回復は順調でしょうか?
もう阪神電車も阪急電車も走り始め、都市間連絡の私鉄と長距離輸送の省線に役割が分かれていた時代ですが、省線も京阪神間のネットダイヤがしっかり構築されていたんですね。ほぼ1時間ごととはいえ、蒸気機関車牽引の列車が現在の阪神各駅停車と同じくらいの時間で阪神間を結んでいたのだから、省線も頑張っていたと思います。
早い時間帯に設定の国府津行きや直江津行きを見て「鈍行はなるべく日付をまたがないようにしているのかな?」なんて考えながら眺めていましたが、甘かったですね。青森行き・・・
阪急はまだ上筒井が終点で、さらには阪神もこの頃は三宮まで。市電で旧居留地や神戸駅周辺に出ていたのでしょう。
国鉄の三ノ宮駅はこの時代は元町にあったものの電化+高架化で今の位置に移転。その位置には既に阪神があり、後に阪急も三宮へ。
この一世紀の間には神戸は阪神大水害、空襲、そして大震災を乗り越えてきました。これからの100年も良い都市であって欲しいですね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
おかげさまで今のところ順調に回復しております。
長距離の移動はまだまだ多くなかったと思いますが、京阪神間の移動はこの時代でも需要があったことがうかがえますね。
私も同じように感じました。鈍行は日付をまたがないような設定にしているのかと思いましたが、青森行きの文字で、その考えが違うことを痛感しました。
いつも貴重な動画、ありがとうございます。
一つだけ。
19:14発の京都行、着は9:27ではなく21:27?
この322列車、時刻表を見ると京都終着は20:27と思われます。
曾祖父母が神戸に住んでいて特急で東京の親戚宅に国鉄に乗って来てた話しを祖父母やお袋から聞いてます。ストが多かったらしく帰るに帰れずにタクシー乗り継いで神戸に戻った話しも聞きました😂
1970年頃の新幹線ひかりからの寝台特急あかつきの時刻表もお願いします🙏
興味深い動画をありがとうございます。
一つ質問ですが、19時14分発の普通京都行き(322列車)について、終着が「9時27分」となっていますが翌朝のことですか?
たぶん午後9時27分で21時27分着でしょう。24時間制に変換し損ねたのではないかと推測します。
始発が今より30分以上早かったんですね。国府津行は静岡地区の最終列車を兼ねてたんですかね?。
その後に午前10時発の沼津行きがあります。
ただ、今と違って都市間移動も少なく、終電という考えはなかったのかもしれませんね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
当時と今では生活スタイルが違うので、鉄道の役割も大きく異なっていたのでしょうね。
この時期に、現代の幕張メッセで開催されるイベント行くためには11時半には出ないと行けないのか
御身体は大丈夫でしょうか?
青森行の列車は凄いですね。2昼夜かけて走ってます。
多分、2桁の列車が長距離走行で、三桁の300番台の列車が京阪神地区を結ぶ区間運転の列車じゃないでしょうか?
京阪神地区の電車運転はもう少し後の時代になります。
御身体は大丈夫でしょうか?
青森行の列車は凄いですね。2昼夜かけて走ってます。(鉄道ジャーナル誌の日本海縦貫線の優等列車の歴史を記述した記事では、戦前は神戸〜青森間で2泊する長距離列車が設定されていた。戦後は大阪〜青森間に短縮され、急行「日本海」と列車愛称がつけられ、ヨンサントウで寝台特急化で、後に廃止になり消えていきました。)
多分、2桁の列車が長距離走行で、三桁の300番台の列車が京阪神地区を結ぶ区間運転の列車じゃないでしょうか?
京阪神地区の電車運転はもう少し後の時代になります。
然し、32列車は普通なのに2等寝台車を連結しているのには驚きです。
久しぶりですね😊
その後は体調いかがですか?
作成お疲れ様です。
お!
今日は神戸発ですか!
直江津に向かうのもあったんですね。
北は青森…。
鉄道網の歴史を感じます。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
おかげさまでPC作業はほぼ問題なくできるようになるまで回復しました。
神戸駅が東海道本線の終点であることを強く感じさせる時刻表ですね。到着までにかなり時間がかかることも驚きです。
もし、この時代に某有名コンテンツがあったら聖地巡礼の計画が立てやすかったかも。1本で東京、沼津、金沢のいずれかに行ける電車も存在したんだから。